自動車人/特約執筆者趙英
青年時代からコレクションに惹かれ、文化的雰囲気が強いコレクションが好きだった。所蔵範囲は郵便物やマッチ箱から硯·書画·図書まで多様だった。
2013年定年退職をしたが、仕事が多く、昨年になってコレクションを整理し終わり鑑賞を始めた、主に郵便物と書画だった。漫ろに見るうちに、無意識的に歴史に溶け込み、昔の絵が徐々に展開され、歳月のかすかな煙が目の前に広がった。
数日前、葉書やポストカードを整理する時、ある日本人の名前が目線に入るようになった——垂秀夫。垂秀夫氏の名前が書かれた年賀状カードが一枚でなく、三枚だった。数日前にインターネットで日本政府が中国赴任大使のニュースを見たが、あまり気をしなかった。本当に彼だろうか。あの約20年余りの日本大使館の秘書、その書生なのか。インターネットでもう一度調べて、写真を見たら、本当にあの人だった。
1990年代後半、私は垂秀夫氏と何回付き合いをしたことがある。その時、彼は学者のように優しく、中国語を流暢に話した、中国の事情をはっきりと理解して、そして喜んで耳を傾けてくれる印象だった。会話の中専門的問題へは障害なく理解した。いくつかの交流会で中国の経済問題について話したが、もちろん日本の経済問題についても、質問をしたことがある。 当時の日中関係は良好な雰囲気だったので、会話は活発だった。それ以後、垂秀夫氏と私は会ったことがない。彼のことを覚えているは、彼が次々と送り出したハガキやグリーティングカード、そして京都大学法学部を卒業したことだ。私の印象では、日本政府や官僚は東大卒業が多く、外務省の京大卒業官僚は比較的少ないためだ。
インターネットで彼の履歴書を見ると、その後彼は日本駐中国大使館で公使を務め、彼が台湾で勤務した後のことだと思う。垂秀夫氏が再び中国に来て、公使を務めたことは、頭の中で記憶がなく、多分仕事が忙しくて、全く気にも留めなかったからだと思う。
秀秀夫が中国を離れるとき、手書きのハガキを一枚送ってくれたことが覚えている。彼が書いた内容には、「中国紳士との友情を育むために、彼は300食以上を食べた」(残念ながらオリジナル葉書は失われた)。この内容に失笑をした。しかし、これは非常に「日本人」らしい、日本人は物事を真剣に行っていることを示すだけでなく、彼が本当に一生懸命働いていることも示していた。300回以上の食事、毎回少なくとも4人が出席、つまり1000人以上との付き合い。秀秀夫は一生懸命働いていた。
2001年1月に、彼からの年賀状を受け取った。 2002年に再び彼の葉書を受け受け取った時、彼はすでに台湾にいた。葉書には、2002年4月以降、彼のオフィスは台北市慶城通り28号に移転することも明記された。日本人が元旦に葉書を送るのは習慣的行為だか、それでも秀秀夫氏の心使いを感じた。
いつのまに20年が経ち、当時の若者がベテラン外交高官になった。垂秀夫氏が中国へ赴任するとしたら、外交官(中国通)として、個人事業の頂点に立つことになるだろう。今の国際情勢で、日本の立場は非常に微妙になる、垂秀夫氏は日本駐中国大使になれば、日中関係の改善に積極的変化をもたらすことができるはず。
世の中は変わり、変化無常。葉書中の歴史は感慨無量!家に座って歴史を感じ、「一期一会」を想起させることは、定年を迎えた老人にはとても楽しいことである。